Profile

Mamiという一人の人間のまとめ。

でもこれが私という人間の全てではないけど、色々とやってきました。


<STORY>

1977.03.14 めでたく地球人に。

1979年頃? 聴覚障害が分かり、手帳交付。

それから聾学校幼稚部へ通い発音の訓練、言葉を覚える訓練などを受ける。

当時は聾学校で夕方まで訓練、家へ帰ってからも訓練の復習で夜11時ごろまでしていた時も。

このころから鶏肉が好きで、焼き魚の黒い部分が苦手だった。

某小学校の難聴学級へ入学。

難聴学級ではスカートめくりの対象にされしょっちゅうスカートをめくられる日々。

小学校3年生ごろから自我が芽生え、聞こえる子供たちのクラスの中で自分の耳が聞こえないということを恥ずかしく思うようになる。

課外活動ではテニス・陸上・バドミントンをやり、家では水泳に通うスポーツ少女。

小学校5年ごろから友達グループの会話が分からなくなり疎外感を味わう。

それまではただ鬼ごっこやらしてキャーキャー走り回れば良かったのが、みんなマセてくると室内でおしゃべりが増え、途端に孤独になった。

小学校6年、もともと性格的にマイペースだということも手伝ってか、一人を好みはじめ友達グループとつるむのが苦手に。


某中学校入学。

中学校ではある先生にほのかな片思い。

陸上部では短距離・砲丸投げ・走り幅跳びをやった。

何を血迷ったか、その後卓球部にも入る。

卓球部では友達としゃべってばかりで何もしていなかった・・・

顧問の先生ごめんなさい。


高校入学。

初めて彼氏ができてテンパった3年間。

テニス部に入るも、膝の故障と部メンバーとのコミュニケーションがうまくいかず退部。

その後何を血迷ったか剣道部に。

授業サボって先生に呼び出されたことも。


短大入学。

短大でコンピューターと出会いパソコンにのめりこむ。

このころから先輩の誘いで近畿聴覚障害学生懇談会に入り、そこで聴覚障害者の社会参加の大切さ、そして大学の講義保障など色々と知り、そこから活動にのめりこむ。

この時に、私は一つのことに熱中した。

それは大学での聴覚障害学生の講義保障運動。

当時、大学は今よりももっと聴覚障害を持つ学生への門戸開放が厳しかった。

受験する時ですら「うちは聴覚障害を持つ学生のフォローはしない。通訳もダメ。それでもいいか」ということを大学側から呼び出されて「YES」と言わされた。もしそれをしなかったら「では受験はしてないでください」と言われることもあった。

私はそんな時代の中、それでも耳が聞こえなくてもきこえる人と同じように授業を受けたい、と思い、入学後色々な運動をしてきた。

「耳がきこえない人は学力があっても進学を妨げられる時代があった 前編」

http://nekoko1977.hatenablog.com/entry/%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E4%BF%9D%E9%9A%9C

「耳がきこえない人は学力があっても進学を妨げられる時代があった 後編」

http://nekoko1977.hatenablog.com/entry/%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%92


そこからたくさんの友達との出会いがあり、「本当の青春」を味わった。

全国あちこちにも行ったなぁ。この頃に出会った友達は今も大切な友達。


・・・・

振り返ってみれば学生時代は本当に色々なことがあったが、まとめると「楽しい学生生活だった」と思う。

そして今。

社会起業家として聴覚障害者の社会参加などについての様々な問題を少しずつ解決していけるようにしていきたい。

まずは胸を張って社会起業家ですと名乗れるようにすることが今の目標。